昨秋からずっと気になっているカクテルがあった。「2010 サントリー ザ・カクテルアワード」で最高峰に輝いた「翠響庵」(すいきょうあん)がそれで、「名古屋東急ホテル」に勤める小林貴史さんが作るショートカクテルである。 実はこのコンテストには私も見学に行っており、会場でふるまわれた同カクテルを一度は飲んでいる。ただ、「翠響庵」のレシピをもとに、会場となった京王プラザホテルの人が作ったもので、本物の「翠響庵」とは言い難い。コンテストの審査員は小林さんが作ったカクテルを味わい、点数をつけているのだが、観衆に対しては、小林さん自らが作れるわけもなく、提出されたレシピに基づいてホテルのスタッフが作っているのが現状だ。元来、カクテルにせよ、料理にせよ、微妙なポイントが味の決め手となる。だからレシピ本を読んだとて、全く同じメニューが作れないのはそこに原因がある。調味料を入れるタイミングであったり、手つまみの感覚であったりする点は言葉では表わせない。要は適量、適宜と表現されているのが味の重要ポイントなのだ。カクテルも同じ、混ぜる速度や回数が違えば味が変わる。ましてやシェイクするものであれば、なおさらであろう。そういった意味でも、私は正真正銘のカクテルアワード受賞作を味わってみたいと予々(かねがね)思っていた。 小林さんが勤める「名古屋東急ホテル」は名古屋の中心街・栄にある。名古屋駅から地下鉄東山線に乗って栄駅まで。地下街の12番出口を出てから広小路通沿いにまっすぐ歩いていく。徒歩約5分ぐらいで到着する「名古屋東急ホテル」は、国際的なヨーロピアンエレガンスにあふれる雰囲気を持ったホテルだ。1階のロビーからエレベーターで2階まで上がると、目的のメインバー「フォンタナ・ディ・トレビ」があった。扉横には、小林さんが「2010 サントリー ザ・カクテルアワード」を受賞したことを知らせるパネルがあり、ホテルをあげて大々的に「翠響庵」をPRしているものと思われる。 小林貴史さんは真面目そうな印象に映るバーテンダーだ。かといって堅苦しさはなく、話していると、人間的にも面白そうな人だとわかる。私が色んな薀蓄話を自慢げに語っているのに、「そのネタをいただきますよ」と気さくに話してくれる点からも人を気遣っていることがわかる。ある栄誉を持ってしまうと、それをひけらかす人が多いのだが、小林さんはそんな素振りは全くなく、実に人間味がある。
「カクテルアワードに輝いたものを作ってくださいよ」と私が言うと、小林さんは早速「翠響庵」の製作に取りかかってくれた。「翠響庵」は、シェイカーに「ミドリ」30ml、「響12年」15ml、「ルジェ・クレーム・ド・アプリコット」10ml、フレッシュライムジュース5mlを注ぎ、氷を入れてシェイクする。混ざったら、それをカクテルグラスに注ぐ。こうして作られた一杯は、甘めなのにドライな風味が伝わってくる。口内にその甘みが徐々に広がっていくとともに柑橘系の苦みが舌を刺激する。やがて追いかけるように「響12年」の味が立ち始めるのだ。色はゴールドがかった緑色。「緑」と書くよりもタイトルにつけられている「翠」と表現する方がいいだろう。小林さんの言葉を借りれば「翠が響いている感じ」で、「翠響庵」とはまさによくできたネーミングである。 小林さんがこのカクテルを思いついたのは、お茶会に出席したことによる。先輩が「お茶を点てるので、一度見に来ないか」と誘ってくれたのがきっかけだ。「その時、初めて茶室に入ったんですよ。茶室から見えた日本庭園が印象的で、こんな感じでもてなしの心が表現できればいいなと、何気なく思ったんです」。お茶の先生のもてなし方が流暢で、人に無理させることなく、うまく人に合わせている。まさに美味しく飲んでもらおうとする姿勢が垣間見られた。そこで「こんな雰囲気を持つカクテルが作れれば…」と創作意欲を掻き立てられたそうだ。
「2010 サントリー ザ・カクテルアワード」のリキュール部門の課題製品が「ミドリ」だったために、茶室での経験をいかし、「ミドリ」を漢字に当ててみた。そして組み合わせた「響12年」をプラスさせて「翠響庵」なるネーミングを思いついた。この2つの酒に「ルジェ・クレーム・ド・アプリコット」をプラスさせる。杏のフルーティさを補えば、美味しいものができると思いついたからだ。杏はバラ科の落葉果実。緑つながりがあるのと、「あん」の響きを、茶室に見立て「庵」の文字を用いている。「わりと直感的に生れたカクテルですね」と小林さんは説明する。「ミドリ」は日本のリキュールなのになぜか外国での知名度が高い。日本文化を再発信する意味でもあえてジャパニーズウイスキー(響12年)を合わせてみようと思ったそうである。「『響12年』自体は完成されたウイスキーですよ。それをチーフブレンダーの輿水精一さんが『カクテルに使って欲しい』と言っているのだから、その提案に私も応えてみようと思ったわけです」。小林さんは、酸味と甘みのバランスがとれた時にコクが出るのだと言う。「響12年」もヨーロッパで先行発売されて、海外でウケたのだから、外国でメジャーな「ミドリ」と合わせることで、もう一度「ミドリ」を全国に発信できると考えた。 頭の中でレシピを描くと、ものすごく甘くなるのではないかと危惧していたようだ。でも作ってみると、意外にも甘さが舌に残らなかった。「初めはレモンジュースを入れていたのですが、酸味の立ち方や柑橘系の皮の匂いが弱く、大人びた感覚が持てなかったんです。そこで、もう一度“緑”のイメージを深める意味でもライムジュースに代えてみた。すると、バランスがとれたんですよ」。ライムジュースを10ml入れるつもりだったが、そんなに入れなくても苦味を感じるために、5mlに減らしたそうである。「『ミドリ』は味が濃く、甘みも強いのですが、『響12年』を入れることでベタつき感が消え、他の素材もまわり始めるようになりました。『響12年』を20ml加えてもよかったんですが、これだとリキュール部門に出品する意味がなくなり、名前から生じたカクテルのコンセプトも薄れてしまいます。だから『響12年』を15mlに減らしたんですよ」と小林さんは話していた。
このようにして自信作はできたものの、バーテンダー歴4年目の自分ではコンテストに通用するかどうかはわからない。おまけに最終選考会ではいの一番で、壇上に上がったためにかなり緊張したとも話していた。現にトップバッターは審査の面で不利とされる。舌という主観性の強いもので審査されるために、どうしても最初に作られた作品を平均とし、その後からのものをそれより上か下かで判断してしまうことが多いからだ。なのでトップバッターは最下位にもならない反面、最上位にも来にくい。あってはならないことだが、主観という判断基準では、それもやむなしとされている。 そんな大きなハンデがありながら、リキュール部門で最優秀賞を取り、リキュール、ウイスキー、フリーの各部門の中でトップに輝く「2010 サントリー ザ・カクテルアワード」を受賞したのだから凄いというしかない。このカクテルが持つ味わいは、その結果だけで推して知るべしだろう。 小林さんは高校を卒業してすぐに「名古屋東急ホテル」に身を置いている。初めは1階にあるコーヒーハウス「モンマルトル」でサービススタッフとして働いていた。ある時、館内全体のビバレッジの底上げのために「フォンタナ・ディ・トレビ」の当時のチーフバーテンダーがそのレストランにやって来た。その時にチーフバーテンダーの仕事ぶりを見て、初めてバーテンダーになりたいと思ったそうだ。異動願いは出したものの、フレンチレストラン「ロワール」の勤務に。そこで2年半サービススタッフとして働いた後、念願のバーテンダーとなった。「当時は遠まわりしたと思っていたのですが、フレンチレストランでの経験はバーテンダーとしての深みを与えてくれたように思えます。バーテンダーになった当初は通用せず、自信を失ったこともありました。でも、人間としての幅がないと魅力が出ないとわかり、酒以外のことも勉強をしてきたんです」。バーテンダーと客の距離を計るのは難しい。ある時は聞き上手になり、ある時は話し上手にならなければならない。そして寡黙に佇むケースも必要である。だから「近くもあり、遠くもありという距離感が必要だ」と小林さんは言う。雰囲気を持たせつつ、自然にふるまう_、それが茶の心なら、小林さんが作った「翠響庵」には、まさにその思いが込められている。翠色が響く一杯のカクテルを飲みながら、私は名古屋のバーの奥深さをしみじみ味わった。