某雑誌で大阪の食についてインタビューを受けたことがある。その時に取材スタッフから大阪らしい場所で私を撮影したいと言われ、迷わず彼らをお初天神通りへと連れて行った。お初天神通りとは、大阪キタにある商店街で、名前からもわかるように、お初天神を中心に広がっている盛り場だ。 お初天神と誰もが呼ぶが、どうやらこの名前は俗称で、本当は露(つゆ)天神社と言うらしい。太宰府へ菅原道真が流された時に、福島に船泊まして、この近くにある太融寺へ参詣した。その道すがら草の露を見て、都を思い出し、「露と散る 涙の袖は 朽ちにけり 都のことを 思い出すれば」と詠んだそうだ。このことがきっかけで露天神社と呼ばれるようになった。 江戸時代に入ると、元禄16年にこの森で事件が起こっている。堂島・天満屋の遊女・お初と内本町の平野屋の手代・徳兵衛が恋に落ち、天神の森で情死したのである。近松門左衛門は、この事件をモチーフにして名作「曽根崎心中」を書き上げた。以来、この神社には恋の成就を祈願する男女が訪れるようになり、いつしか俗称の方が有名になってしまった。 話が長くなった。ここらで本論に移そう。そんな露天神社(お初天神)のすぐそばにあるバーで今日は一杯飲りたいと思って出かけた。「THE TIME(ザ・タイム)天神」は、この神社の敷地内にあるお初天神ビルの2階にある。店はカウンターのみで、11席。小ぶりのバーではあるが、店主・山本亮一さんがひとりで切り盛りしていることから考えても、ちょうどいい広さかもしれない。
山本さんが「THE TIME 天神」をオープンさせたのは、約10年前。「ひとりでふらっと行ける店を作りたい」との思いから独立したそうだ。だからであろう、この店はひとり客が多い。サラリーマンやOLが止まり木っぽく使っており、「ひとりで来て、ほっとできる場所が作れればいい」との山本さんのコンセプトがうまくはまった形になっている。 山本さんは、大学を卒業して西武セゾングループに就職した。西武百貨店など色んな業態がある中で、たまたま配属されたのが飲食事業部。かつて六甲(神戸市東灘区)にあった「OLD&NEW」からバーテンダーの道を歩み始めている。「もし人事部が違った部署に配属していれば、私の人生も変わっていたでしょうね」と言うように、百貨店やホテルに配慮されていれば、今の「THE TIME 天神」は存在しえなかったろう。 山本さんにバーテンダーの道を歩ませたのは、当時「OLD&NEW」の支配人だった宇座忠男さん(現在、西宮・苦楽園のバー「THE TIME」を経営)の影響が大きい。宇座さんは、かつて沖縄でもバーをやっていた経歴の持ち主。山本さんによれば、オーラがある人のようで、「この人ってかっこいいなぁ」と思ったのが第一印象らしい。だから山本さんの店には「THE TIME」の名がつけられている。「独立する時に師匠から名前の一部をもらった」と言うから、昔の暖簾分けのようなスタイルなのだろう。
このバーを訪れると、食べたいものがある。それは山本さんの手によって作られた燻製だ。「THE TIME 天神」の燻製が他店と違うのは、燻す時にウイスキー「白州」の樽材を使っていること。「白州」の樽の側板を白州蒸溜所から譲り受け、自宅近くの材木屋でチップにしてもらっているらしい。「木自体が最近までウイスキーが入っていたのか、ウイスキーの香りがプンプンするんですよ」と樽の側板を見せて私に話してくれた。それをチップにして鴨や豚バラ、平目、鯛、海老、卵、チーズなどなんでも燻す。スモークしたものには、ほんのりウイスキーの香りが移り、美味なる風味を醸し出している。 山本さんが「白州」樽の廃材で燻製を作ろうと思ったのは6年ほど前に白州蒸溜所へ行ったのがきっかけ。そこで積んであった樽材(廃材)からウイスキーの匂いが漂っていたことから、これでスモークを作ると面白いのでは、と考えた。 燻製を作る時によく使われるのが桜のチップ。山本さんによれば、「桜を使うと、簡単にできるが、香りが強すぎて食材そのものの匂いを殺してしまう恐れがある」と言う。その点、「白州」の樽材(ナラの木)だと、その心配もなく、おまけにうっすらとウイスキーの香りが移るそうだ。
この日、私に提供されたのは「本日の燻製盛り合わせ」で、真鴨に、的矢牡蠣、うずら卵、真珠貝の貝柱、チェダーチーズの5品だった。昨今は燻製がちょっとしたブームなのか、よくバーでメニュー化されている。しかし、この店の燻製は、一般的なものとは違い、口に入れると、ほのかな甘みが広がる。「甘い感じがいいですね」と私が感想を述べると、「それがウイスキーの樽材を使っている特徴かもしれません」と語ってくれた。 この「白州」の樽材で燻したものには「ボウモア12年」がマッチすると山本さんは主張する。「ラフロイグも合うんですが、この酒は個性が強すぎます。初めは美味しく感じるでしょうが、食べ終わる頃にはしんどくなるのではないでしょうか」との感想を持つ。ただ「このマリアージュがいいんだよ」と言って、ひたすら「ラフロイグ」で飲る人もいるそうだ。 「白州」の樽材を用いているだけに、勿論「白州」とも合う。「スモーキーフレーバーが『山崎』よりは『白州』の方があるので、国産では、これがベストカップリングかもしれませんね。『白州』って鼻の奥をかすめるようなスモーキーさがあるでしょ。だから燻製を食べた時に美味しく感じるんですよ」と山本さんは言う。 「何年か前にボウモアの町へ行ったことがあるんです。波の荒い日は、潮が空(くう)を舞い、霧がかかったようになるんです。蒸溜所が海岸べりに建っていて、波が建物にぶち当たる激しさが印象的ですね。現地の人は、そんな日にはワカメが空を飛んでいるって言いますがね」。そう言いながら山本さんは、的矢牡蠣の燻製に「ボウモア」をかけてくれた。「これがあの有名なアイラ牡蠣(ボウモアがけ)ですか」と言うと、「残念ながらアイラではなく、これは的矢ですがね」とにっこり微笑んだ。
ウイスキーは色んな食べ物とマッチする。ある料理研究家は「中華料理に合う」と表現していた。しかし「THE TIME 天神」の燻製ほどウイスキーに合うものは少ないのではないかと私は思っている。当たり前の話で、この燻製が「白州」の樽材で燻されているからだ。 マリアージュというなら、チョコレートとの相性も抜群である。そんなことを話していると、山本さんはホワイトチョコレートとビターチョコレートを盛った皿を出してくれた。「ホワイトチョコレートには、シェリー樽を使ったウイスキーやバーボン樽を使ったやさしい味のものがマッチします。片やビターチョコレートには『ボウモア』や『ラフロイグ』のようなクセのある酒も合いますね。バレンタインデーも近いので、スモークのあとはチョコレートで一杯飲りますか」と、山本さんは次の酒を用意してくれている。 「曽根崎心中」の中に「曽根崎の森の下風音に聞こえ、取伝え貴賤群集の回向の種、未来成仏疑ひなき、恋の手本となりにけり」の一文がある。ままならぬ恋の行方から自殺を図ったお初と徳兵衛。この縁りの社で私は燻製とウイスキーの見事なる出合いを体験した。もし、お初と徳兵衛が今の世に生を受けていれば、悲恋ではなく、マリッジ(結婚)となったのであろう。そんなことをふと思いながらウイスキーとの見事なるカップリングを味わった。